地名推理のお勧め

 夜空に輝く星が作り上げる図形にはもはや意味はなくなったのかもしれませんが、その昔古代人のロマンをかき立てていました。地名は地上に並ぶ星のようなもので,、見方次第ではロマンが溢れています。しかも、星とは違い、意味あるものとして人の生活の歴史が埋まっています。

 歴史資料など紐解く時間がなくても、地図に描かれた地名と地形だけで自分なりの推理を組み立てることができます。ほとんどが的外れだけど、時折「あっ、そうだったのか!」と驚く瞬間があったりします。そこには人の思いが溢れてきます。

 このページには、僕なりの地名推理(主に岡崎市)を掲載しております。あくまでも仮説ですので、探偵小説のように読んでみてください。すこしずつ加筆していく予定です。


【八帖町】
この町名の由来は推理ではなく、とても有名。八丁味噌の生産でも知られる町名。元は八帖村であり、八帖村は岡崎城より西へ八帖(約800m)離れていたことが村名の由来とされている。岡崎には城基準の町名がかなり多いと思われます。

【曙町、朝日町】
城基準の町名と思われます。いずれも東海道沿いの町で、北側に曙町、南側に朝日町が位置していますが、いずれも岡崎城の東約1kmにあります。岡崎城から見て「日が昇る」という意味かな。

【竜美】
城基準の町名と思われます。竜美丘小学校を中心にしていくつもの町に竜美の文字が冠されています。竜美は岡崎城からちょうど南東の方位にあり、十二支による方位、辰巳を意味していると推察できます。

【康生町】
明らかに城基準の町名。岡崎城の住所が「岡崎市康生町岡崎城」。しかし徳川家康が生まれたところで康生というのは、あまりにもダイレクト過ぎるので比較的新しい命名と思われます。

【伝馬通町】
各地の城下町に置かれた町。伝馬役と呼ばれる領主のための伝馬およびそれに関連した夫役を負担していたそうです(Wikipedia)。ある意味城基準の町名。

【連尺通り】 
江戸時代の命名。Wikipediaにしっかりと書かれているのを以下転載させていただきます。『連尺通りの全線が「岡崎城下二十七曲り」の一部になっている。 徳川家康の祖父松平清康の時代、その家臣大久保忠茂が市銭免除の楽市を許したのを契機に、各方面から商人が集まりこの地に市を形成した。荷物を運ぶのに背負い具の「連尺」を用いたので、江戸時代初期にこの市の通りを連尺町と呼ぶようになった。 家康の関東移封後、田中吉政が城主になって岡崎の城下町を整備し、東海道を岡崎城下の連尺町に通してこれを保護すると、次第に商業が発展していった。とくに呉服商・木綿商・荒物・酒屋・油屋・小間物など武士の日用品や衣類を売る店が軒を連ねて賑わいをみせた。1945年(昭和20年)7月20日未明に岡崎空襲を受け全町が焼失。戦後の町名変更により、上連尺は本町となり、現在の連尺通はかつての中連尺と下連尺の地域のみとなった。』

【二七市(ふないち)】
連尺通りがでてきたついでにすぐ北の二七市通り(八幡通り)について。二七市通りは、岡崎市を代表する定期市が開催されることで有名。二七市は毎月下一桁の数字が2と7のつく日(2日・7日・12日・17日・22日・27日)に八幡通りで催されるため、名称が二七市となりました。戦後の闇市が発展したもの。ではなぜ2と7か。すぐに思い浮かぶのが「岡崎城下二十七曲り」です。偶然なのかもしれないが、もし「岡崎城下二十七曲り」を名称に含めていたのだとすると、考案者は相当出来る人物です。二七市通りが二十七曲りに含まれていないのが残念です。

【材木町、魚町、花崗町(みかげ)】
その名の通りの由来と思われます。花崗町は石屋の町であるが、「みかげ」は神戸の御影から由来しているとすれば、比較的新しい命名です。

【伊賀町】
三重県の伊賀が由来。町名は伊賀八幡宮から由来しており、伊賀八幡宮の元あった場所が三重県伊賀ということらしいです。伊賀八幡宮は1470年の創建。

【明大寺町】
岡崎で最も歴史ロマン溢れる由来をもつ町名。東岡崎駅やその裏の丘陵地にかけての広い地域が明大寺町だが、その由来はかなり奥深そう。時代は源義経の時代に遡ります。詳細は、以下の読み物を参考。自然科学研究機構の敷地内に、麝香塚(じゃこうづか)や硯田(すずりだ)という名称が残っている理由が明らかにされています。普段僕が研究をしている実験室は、麝香塚だったのです。

明大寺に関しては浄瑠璃姫と合わせて別のブログでも再考察をしています。
浄瑠璃姫の流れから千本という地名も解くことができます。https://sakamotowatanabe.blogspot.jp/2017/03/blog-post_30.htm
研究室はほんのわずかに麝香塚(Google Map)

【大門】
古代の巨大寺であった北野廃寺の山門があったという説が有力です。北野廃寺は飛鳥時代後期の建立とされており、そうだとすると由来は相当古いです。

【北野】
大門に続いて北野廃寺関係の地名です。北野廃寺を訪ねると、そのすぐ横に天満宮があることに気が付くでしょう。京都でも天満宮のある場所を北野と呼びます。これは北斗信仰に由来しているそうです。北野を北極星に見立てて信仰したとするなら、岡崎の中心部から見てちょうど真北にある北野は納得の位置になります。天満宮が後世に残り、北野廃寺は名前すらなくなったのは何故でしょう。大きな謎です。実は京都の天満宮のすぐ近くにも北野廃寺跡があります。これは偶然の一致でしょうか。ちなみに、岡崎で一番大きな天満宮は上記の天満宮ではなく、中町北野1にある岡崎天満宮です。やはり北野ですね。

【西田潰、東田潰、南田潰、奥田潰】
地名マニアを唸らせる命名。地名から感情が迸ります。つぶしっ!ぼくはこれ以上かっこいい地名を見たことがありません。東名の岡崎インターがすぐそばにあります。想像するに岡崎インター整備時にひとまとまりの大きな田んぼを潰して出来上がった地名かと思われます。北田潰とすべきところを、奥田潰としたところが妙。

【ゼッポウ】
こんな形をしてるから「舌鋒」かな?うーん、違うかな。なぜカタカナになったのか、なぜ町がこんな形をしているか。カタカナ名は古い名称という説あり。
Google Map
【矢作】
矢を作る職人である矢作部から。東征途中のヤマトタケルが矢作川の竹を使って矢を作ったという伝説が残っている。詳細は矢作神社の項参照。【吹矢】矢作と同じく東征途中のヤマトタケルの伝説が残る。矢が吹き流れてきたところから、吹矢大明神となる。後の菅生神社。ここのブログに詳しい。

【芦池】
六名に残る地名。比較的大きな池があった場所。このあたりは湿地帯だったようです。ちょうど東側が急な坂になっており、雨水が流入していたと思われます。竜海中学という名称もそのあたりから由来しているのでしょう。芦池橋というバス停あたりには橋がかかっていたそうです。橋の欄干跡は今でも残っています(下)。なお、この池を埋め立てるときに使った土は、自然科学研究機構の明大寺キャンパス(当時は愛知学芸大学=後の愛知教育大学)を整地するするときの土を利用しています。
バス停芦池橋付近に残る橋の欄干。芦池橋の正式な名称は「新四橋」だったようです。
【欠】
「かけ」と読みます。地形から読み解くことができます。乙川のちょうど北側にあり、地形が盛り上がるあたりにあります。昔は川の位置は常に一定というわけではなく、蛇行も激しかったと推定できますので、いまの川の位置から比較的遠い場所にも川が作り上げた段差を確認できます。欠は崖からの由来ではないでしょうか。大樹寺のすぐ西側にも大きな段差を確認できます。これは昔の矢作川が作り上げた段差のようです。いまの川の位置からはずいぶんと離れています。

【欠町三田田】
 欠町には字名に三田田北通りと三田田南通りがあります。みただと読みます。名鉄バスの停留所にも「三田田」があります。田を重ねているのがユニークです。三田さんの田んぼがあったのかな?
名鉄バス「三田田」
【島】
 乙川のすぐ北にあります。欠町の乙川寄りにあることから、素直にそのままの名称でしょう。島という名前は比較的素直に解釈できますが、三島町はずいぶん川から離れていますので、なんとも言えません。地元の方のお話によると、三つの池(現在は二つ)があったそうで、その三に由来しているかもしれません。

【阿知和】
 「あちわ」と読みます。東阿知和町と西阿知和町があります。町域はかなり広い部類になります。とても奇妙な名称ですが、由来はしっかりとしています。東阿知和町にある謁播神社(あつわじんじゃ)が起源です。謁播神社の祭神は、知波夜命(ちはやのみこと)で、出雲物部氏関係の神社とされています。創建は古く、へたをすると岡崎でも最古の部類に入ります。阿知和という苗字は、ここが発祥。全国に300人ほど阿知和姓の方がおられますが、その大半は愛知県在住。阿知和姓の異形として阿知波がありますが、こちらは約1900人おられます。そのうち1400人は、愛知県在住。愛知県に多いですね。小地域順位としては愛知県名古屋市熱田区四番に40人が最多。熱田神宮との関係が興味深いところです。「あつわ」と「あつた」、あるいは「あちわ」と「あつた」は、音的にもかなり近いですね。地形的にも面白く、謁播神社は矢作川の支流である青木川沿いに立ち、北野廃寺にも近い。熱田神宮がもともと海沿いに建てられていたことを考えると、2つの地区は水路でつながる。さらに面白いのは、すぐそばに徳川家を支えた本多忠勝の生誕地があることです。岡崎の地名は奥深いです。

【門前町】
 随念寺の門前の意味かと思われます。

【十王町】 
 町の北端西角の伝馬口にあったとされる十王堂に由来する。十王とは、冥土で亡者の罪を裁く十人の判官のことで、この十王様をお祀りしているのが十王堂である。肝心の十王町には十王堂は残っていないが、藤川町一里山南には十王堂が現存する(超貴重)。
藤川の十王堂(岡崎おでかけナビから転載)
【大平】
 長らく考察してもよくわかりません。それほど意味はないのかもしれませんが、名付けた時期はかなり古そうです。岡崎の重要ポイントのひとつで、東海道80里目の一里塚があります。お城もあったようです。この狭い地域に4つもお城があったらしい。。。

大平一里塚(国指定重要文化財)
【師範通り】
  愛知教育大学附属岡崎小学校、同附属岡崎養護学校の側道の通称名で、愛知第二師範学校に由来します。なんだか素敵な名称です。

 【レッドバロン】
 バイク好きしか興味はないでしょうが、全国のライダーに名前が轟くレッドバロンです。その本社が藤川町に、そして本部が大平町にあります。
  http://www.redbaron.co.jp/
 この会社の理念は非常に高く、ツーリングライダーのための全国基地を配備し、低く見られがちだったバイク販売店の地位を大きく引き上げました。この会社はライダーを文化の担い手とまで考えており、若者の冒険心を信じております。岡崎が誇るべき会社のひとつです。レッドバロンという名称は第一次大戦のヨーロッパで、深紅にひかる複葉式戦闘機を駆って大空を華麗に舞った無敵の撃墜王リヒトホーフェンに由来します。彼の別名は、燃える男爵、レッドバロンです。ロマンですね。 http://www.redbaron.co.jp/company/yurai.html

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