日置さんからの手紙

 大人の古代史の著者である日置善雄さん(ペンネームkanikamaさん)から貴重な私見をお手紙で頂きました。とても示唆溢れる議論が展開されていますので、ご本人ご許可を得てここに掲載させて頂きます(渡辺)。

==以下日置さんからの手紙(原文ママ)==


渡辺英治様


「岡崎の六並び」に関する「六供の道」についての私見をまとめました。お時間とご興味があればご一読下さい。


先ずは、岡崎市、前橋市、小諸市、寒河江市に存在する各々の六供の名前の由来について調べてみました。


岡崎市の六供に関しては、「近くに六つの寺があったことに由来するらしい」程度の話しがみられる程度で、それ以上の情報は今回は見つかりませんでした。群馬県前橋市の六供については、源義経が京から奥州に下る際、ここに立ち寄り六人の家来(お供)をこの地に残していったことに由来するとの昔話があります。長野県小諸市六供町では、成就寺に室町時代に門前に建立した地蔵院、華蔵院、明王院、円光院、円蔵院、太子堂という6つの塔頭が六供の地名由来ではといわれています。山形県寒河江市六供町では、昔、八幡神社の祭日に六つの供物をお供えした。それを行う人達が住んでいた場所が「六供」という説があります。


つまり六供の地名の由来に関しては、各地で異なり同じではないようです。何故でしょうか。


これは推定するに、六供という字が持つ本来の意味を離れ、時代と共に各地の文化や歴史的出来事が加味された結果、各地特有の由来話が生まれていったと考えると良さそうです。それでは、六供の本来の意味とは何でしょうか。それには漢字の成り立ちと本来の意味にさかのぼれば本質に近づけると思われます。そこで語源を調べたところ、大変興味深いことがわかりました。「六」の語源は、本来少し小高い場所や丘を意味し、そこにテントのような簡易な家屋が立つ形から成立した字のようです。古来、そこで神に祈りを捧げたらしい。読みはロクが後にリクに発展します。つまり漢字の六はその後、坴や陸に発展するわけです。あまり高くない丘、岡を意味するようになっていきます。岡崎市の地名も少し小高い丘の先に広がる土地の意味から名づけられました。


一方、「供」の語源は、物をお供えするの意味。部首がニンベンなので、人が両手で大事なお供え物をうやうやしく神に差し出す姿から成立した漢字です。


つまり、「六」と「供」の組合せは、「人が神 (または目上の偉い人) にうやうやしく供物を提供するような所、場所(少し小高い地)」ということになります。


「六供」は、語源自体にストレートで重要な意味を含んでいたのです。


このような六供が持つ本来の意味、及び当時の伊勢と三河との深い関係などを考えると、「六供」と「六供の道」の意味が見えてきます。天皇への貢物・供物を差し出す特別な「場所」であり「伝達路」であったのでしょう。そのように考えると六供の名前の由来も地名の場所も納得がいきます。当時の天皇や伊勢の神官、貴族達が、全国から税として集めていた諸々の品々の中でも、三河方面からの供物は品質が優れており、朝廷内でも重宝されたようです。


既に良く研究・調査されている例が、三河の特産の高品質の絹である「犬頭糸」や「赤引の糸」です。他の地域からの物より品質がはるかに高かったようで、色も白く綺麗な犬頭糸は天皇の衣に、赤引きの糸は神官の衣に使われたそうです。これらの供物が三河の「六供」の場所から陸路と海路を経て伊勢に運ばれ神にお供えされました。まさしく本来の語源の意味のとおりです。


さて、これまで六供の「道」とか「伝達路」という言葉を使いました。よりイメージを明確にするために、そして一番気になっている六供の地名が直線的に並んでいる不思議さを理解するためには、「古道」についてもっと知ることが重要であると気づきました。古道とは、現代では使われていないが、古代の人達が往来したり物資を運んだりした古代の道です。古代、さまざまな古道が出来、各時代によってもルートが変わって行き、さまざまな目的で使われたことがわかっています。その中で、三河から始まる六供の直線ルートは、天皇や伊勢神宮に奉納する供物と文化や技術情報が運ばれた古道であったと言い換えてよいと考えます。


一方、三河と伊勢との間の当時の活発な往来(人や物)が、三河で止まってしまったわけではなく、バトンをつなぐリレーのように東北方面に次々に伝わって行ったのが各地の「六供」をつなぐ道ではないでしょうか。


そこで古道の特徴を調査した文献を調べると、ここでは詳しくは割愛しますが、驚くような内容が出てきます。例えば古代の人は山峰の古道を使うことで、高低関係なく地図上のほぼ最短距離を引いて出来る直線ルートで目的地と往来していたというのです。現在の道路事情では難しいことを彼らは可能にしていたのです。古代の人々のすごさには驚かされます。これで、地名が直線的に並んでいるのは単なるミステリー現象ではなく、ちゃんとした意味があったことがわかります。もやもやした気持ちがすっきりとしてきました。


岡崎市、前橋市は勿論、生糸や織物で有名です。富岡工場は超有名ですね。小諸市も織物が有名です。山形県の寒河江市は古い時代の情報はまだ見つからず今回わかりませんでした。しかし現在活発な繊維会社が何社もあることから、やはり地場産業として昔からその環境があったと考えても良さそうです。一方で、瀬織律姫を祀る神社を調べてみると全国的に見ても数がとても少ないのですが、これらの4市の周辺には、瀬織律姫を祀る神社が確認できました。


まとめます。短くまとめるなら、「六供の直線ルート=古道」。これが私の説です。


言葉を追加するなら、「六供の道とは三河を中心として、三河と伊勢、および三河と東北をつなぐ最短距離の直線ルートを結ぶ古道であり、主に天皇への供物運搬や情報・技術の伝達に活用された。詳しい地図のない時代、六の地名自体が往来者の道しるべとしても使われた」というのが私の考えです。


古道の多くは現代では使われておらず、今ではほとんど跡地が残っていません。しかし六供という「名誉」ある場所を示す「特別な地名」であったことでこの名は代々伝わり、消滅せず今に地名として残ったのではないでしょうか。


最後に、菊池展明著の「エミシの国の女神」(風琳堂2000年発行)について紹介させて下さい。伊勢地方では本来、天照大御神は男神であったとされますが、その一対神(妻)であったといわれる瀬織津姫のことを書いた本です。また、持統天皇が晩年に死を覚悟して行った三河行脚の謎についても述べています。この本の中で、著者は「機織りの技術を持つ女達によって、絹織物の技術の伝達と共に瀬織津姫の信仰が、三河から、諏訪、そしてエミシ(蝦夷)の東北地方へと伝わっていったのだろう」という考察を述べています。しかしその具体的な伝達経路までは示してはいません。


この本を読んだ後しばらくして、偶然にも渡辺様のブログを拝見しました。本当に驚きました。渡辺様が見つけられた六供のルートは、もしかすると、菊池氏が書いた「絹機織技術と瀬織津姫の信仰が三河から東北に伝わった」とする考察を裏付けるかもしれない具体的なルートの発見ではないか?と閃いたからです。


早速、六供の地名がある愛知県岡崎市、群馬県前橋市、長野県小諸市、山形県寒河江市の周辺では①織物が有名か、そして②瀬織律姫の信仰の跡があるか、の両面で調べてみました。加えて、これらの六供周辺には共通点として古くから古道が通っており交通の要所として栄えていたこともわかりました。これで、「六供」の並ぶ直線ルートと「絹と瀬織津姫信仰が伝わった」とされるルートが重なってきました。


渡辺様がブログのコメントで追記されたヒノキの運搬路も大変興味深いですね。ヒノキの運搬からも面白い発見が出てくるはずです。

以上、素人の楽しみのレベルで大変僭越ではありますが、何かのご参考になればと思い、私見と感想を述べさせて頂きました。
既にご承知の内容が多々ありましたらご容赦下さい。ご同意いただける箇所、異なるお考え、いろいろあるかもしれません。いずれにせよ渡辺様のブログには大変夢があり楽しませて頂いています。お礼申し上げます。

私は千葉県在住ですが、生まれは岡崎市で、たまに墓参りで帰省します。岡崎に立ち寄った折に、もしもお会いする機会があれば大変幸甚に存じます。


直接話せば短く簡単な内容でも書くと大変長くなり失礼いたしました。

お時間を頂きありがとうございました。

益々のご活躍をお祈りします。


2015年10月3日


日置善雄

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